日本語コラム『モノは言いよう』

梶原しげるの日本語コラム『モノは言いよう』・第9回 人をやる気にさせた恩師の言いよう

梶原しげる
1950年、神奈川県生まれ。早稲田大学第一法学部卒業後、文化放送に入社。アナウンサーとして活躍し、1992年からフリー。司会業を中心に活躍中。東京成徳大学客員教授(心理学修士)。日本語検定審議委員。著書に『不適切な日本語』『口のきき方』『すべらない敬語』『即答するバカ』(いずれも新潮新書)など多数。

50年以上も続く恩師との交流

「梶原君、ご活躍の様子、何よりです。私はなんと、今年で80才になります!」
サインペンで書かれた「独特の筆致」を見て「金子先生からだ!」とすぐに分かりました。先生との出会いはもう50年以上も前のことですが、いまだに年賀状のやり取りは途絶えていません。これまで出版した50冊ほどの本も、先生の都合も考えず勝手に送り続けてきましたが、先生はいつも丁寧な読後感想をお手紙にしたため送って下さいます。
読むに堪えない駄作だってあったはずですが、どの著作に対しても「ここが良かった」「これが面白かった」とお褒めの言葉がつづられています。本当にありがたいことです。この数年は、ご無沙汰続きで恐縮するばかりです。
さて、今回は「この先生に出会えて良かった」というお話をいたします。読者の皆様の目指すところと「この言葉」、関係なくもないと感じたからです。なんせ半世紀以上前のことですから、私の記憶も怪しいものですが、その辺は割り引いてお読み下さい。

 

田舎の漁師町に東京から来たイケメン先生

先生が茅ヶ崎市立西浜中学校に赴任されたのは、私が中学校2年生になるやならずのことだったと思います。今でこそ「茅ヶ崎育ち」というと「お、サザンの桑田さんと故郷がいっしょ?」とか「え? 梶原サンて、湘南ボーイだったんだ、ウソ…」と驚かれることがあります。
しかし当時の茅ヶ崎は、実際には、半農半漁の田舎町でした。正確に言うと、市の東側には加山雄三さんの「御殿」があったり、市営球場があったり、ホテルパシフィックもあったりで、ごく一部「リゾートっぽさ」はあったようですが、トータルで言えば、ずばり「田舎」でした。
波打ち際の校舎。風が強い日は浜の砂が教室に舞い込み、授業が中止になるような「へんぴな学校」に似つかわしくない「事件」が起きました。開校以来初めて、超都会的で、若いイケメン先生を迎えることとなったのです。
当時は、女子生徒ばかりかご近所のおばちゃん連中までなんだか「わさわさ」する空気をかんじたものです。集会場(体育館などなかった)に集められた我々生徒を前に、新任のご挨拶がありました。

司会の教頭「おめっち(君達の、方言)、スゲえ先生だぞ、なあ、顔見ておどろいたんべ(驚いたでしょう、の方言)、イカしてるべ(カッコいいの当時の流行語+方言)、しっかり聞くだぞ!じゃ先生」(あくまでも梶原の当時の印象を元にしました、って通販番組の断り書きか……)

紹介された先生は、ジャージではなく、当時映画スターが着ているようなスーツにストライプのネクタイをきりりと締め、髪もビシッと73に分け目が入っています。「都会のオーラ」に圧倒される思いでした。

金子先生「僕は東京にある、東京理科大学で冶金の研究一筋にやっていましたが、あらたに志をもち、この度教職に就かせて頂きました。先生方や生徒の君達から一生懸命学びながら、1日も早く良き教師となれるよう精進して参ります」

我々の多くは「やきん」を「夜勤」と信じて疑わず、「夜勤続きは、そら、たいへんだったんべえなあ」と変に先生に同情したものです。「やきん」が「冶金」で、金属の精製・加工の研究だと「おれっち」が知ったのはだいぶ後のことでした。
ちなみに「理科大で冶金」とくれば、「理科の先生」と、普通に思いますが、何故か先生は「英語担当」だったのも、今から考えれば不思議なことです。
しかし誰も違和感を覚えなかったのは「おれっちが無知だから」というより、この先生が教えるなら「英語だろ!」という「空気」が最初から広がっていて、誰も不思議に思わなかったのかも知れません。東京から来た都会的な先生の、歯切れの良い標準語、とりわけ「僕」「君」などと、映画でしか聞いたことのない言葉のひびきは、漁師町の子供達には衝撃的なまでに新鮮でした。その後1週間ほど、君、僕、は校内の「流行語」となったほどです。

 

「出ると負け部」を変えた先生の言葉

「憧れの金子先生」は、何とラッキーなことに、私の所属する卓球部の顧問になりました! 野球やバレーなど、優秀なクラブが揃った我が中学の中でも卓球部だけは「出ると負け部」と言われるほど不振に陥っていました。無理くり「英語」を任された新任の金子先生は「ダメダメ部」再建も任されたのかも知れません。でも、先生は卓球の超初心者でした。

先生「僕は、君達に学びながら、この部を茅ヶ崎ナンバーワンのチームにするお手伝いをしたいと思っています」

我々「え? そりゃ無理だんべ……(つぶやき)」

ところが「研究熱心な先生」はどうやら密かに専門コーチについて特訓を受け、急速に卓球指導者としての腕を磨き上げていったようなのです。その技が先生から我々に伝授され、我々の腕のレベルもみるみる上がってきたのです。ここまでたった半年ほどのことでした。その頃から先生は市内のみならず藤沢、鎌倉などの中学校卓球部に声を掛け、それまで我々が経験したことのない、対外試合を経験させてくれました。最初はぼろ負けだったものの、「場慣れ」もあって、たまに勝ったりもし始めます。
ある冬の日……ここには実績から言って絶対歯が立たない藤沢の名門校と対戦し、その敵地で、我々は接戦を制して奇跡的に勝利してしまったのです。ビックリです。

「君達お腹空いたろう?食事してから帰ろうか?」

都会、藤沢のレストランで、当時の我々には見たこともない「ハンバーグ定食」なるものをごちそうになったのです。ファミレスのない時代の話です。

「こんな値の張るうめえもん、おいら達に食わせて、大丈夫だべか……(みんなのつぶやき)」

そんな心配も吹き飛ぶほどのおいしさに「勝利することは素晴らしい」をすり込まれた気がします。

「勝つって良いなあ…(つぶやき)」

食事を済ませ、外に出ると陽は沈み、見上げれば大きな月が煌々と輝いています。先生が言いました。

「君達、あの月は、君達に何と声を掛けていると思う?」

藪から棒の質問に答えられるものはいませんでした。この時、トレンチコートの襟から鮮やかな色のアスコットタイを覗かせた、相変わらずお洒落な先生が穏やかな笑顔で仰った言葉を忘れることはありません。

「あの月の声、僕にはきこえるぞ、勝って兜の緒を締めよ。今日は良かったね、じゃ、明日からまた精進しよう」

勝利に酔う私たちを見事に締め、次へつなげた先生の言葉。その後、私たちの代は市民大会優勝、と言うわけには行きませんでしたが、2つ下の代は見事、茅ヶ崎ナンバーワンの栄冠を手にし、県大会でも大活躍することとなります。「東京からやって来たイケメン先生」は「単なる都会のやさおとこ」ではなかったというわけです。
その後先生は、何校かの校長を務め、教育委員会に転じ、そして今は悠々自適。私のような教え子や、後輩教師から慕われています。

教セミちゃんねる 教員養成セミナーのご紹介 教セミLine@ 教員採用試験対策サイトへ

最新号のご紹介