編集長コラム

衣をまとった「ゆとり教育」!? 新指導要領が目指す学校教育の姿とは

“情報通”が一目置かれる社会

「そんなことも知らないの?」
日本人の多くは、そう言われることに、どこか恐怖心を抱いているような気がします。“知ったかぶり”をするのは、心のどこかに「知らないと言ったら馬鹿にされそう…」との心理が働いているから。かく言う私も、日常会話の中で知らない言葉に出くわした時、「それは何ですか?」と素直に聞けないことが少なくありません。おそらく、「知らない自分」をさらけ出すことへの恐怖心が働いているのでしょう。
現代社会には、無数の情報が流れています。新聞やテレビ、書籍、Webサイト、SNSなど、そのソースも多様です。ガラパゴス化した膨大な情報の大海原から、いかに“面白い情報”をすくい上げるか、そのことに多くの人々が躍起になっているように見えます。やたらとテレビのチャンネルを変えたり、SNSのタイムラインを見たりする行動にも、どこか「何か面白い情報はないか」という、情報への渇望感があるのでしょう。
現代社会では、“情報通”と言われる人が、一目を置かれます。会社の人事情報、男女の恋愛関係、他人の知られたくない秘密…。いわゆる“裏情報”を握っている人が、脚光を浴びます。居酒屋で最も盛り上がるネタの一つは、そうしたゴシップ的話題です。
しかし、よくよく考えてみたら、そうした情報の多くは、持っているだけで仕事や生活に直接的な価値をもたらすものではありません。にもかかわらず、人々は情報の保有量を増やすことを競い合っているように見えます。「そんなことも知らないの?」という言葉への恐怖心も、そんな人々の価値意識と無関係ではないでしょう。

「知っている」ことへの価値を問う

情報は持っているだけでは、何ら価値を生み出さない――そう言えば反論する人もいるでしょうが、より大切なのは、保有する情報を使って、何を生み出すかだと思います。ビジネスマンならば、持っている情報・知識を有機的に結び付け、ヒット商品を生み出したり、利益を上げたりすることで、初めて情報を保有していることに価値が生まれるわけです。
ところが、現実には情報の“保有量”を増やそうとする人が、多いように思います。何故なのでしょうか。一因に学校教育があると私は考えています。
現代人の大半は、学校において、知識・技能の“量”を増やすことを求められてきました。国語で漢字を覚えたり、社会科で歴史上の人物名を覚えたり、数学で方程式の解き方を覚えたりし、時にはテストによって順位付けもなされながら、知識・技能の習得に励んできました。すなわち、知識・技能が社会生活の中で「役立つ」「役立たない」に関係なく、「まずは知っていることが大事」という教育を受けてきたわけです。
しかしながら、知識のうち“知っている”だけで、生活に役立つものは、小学校段階の漢字や四則計算など、ごく一部に限られています。中学校以降の学習はおろか、小学校高学年の学習ですら、日常生活に生きているものはごく一部に過ぎません。
2017年3月、小・中学校の新しい学習指導要領が文部科学省から示され、小学校は2020年から、中学校は2021年から、新しい教育過程に基づく授業がスタートします。改訂の目玉として「小学校英語」や「アクティブ・ラーニング」などが取り沙汰されていますが、最大の特色は知識・技能の“活用”に焦点を当て、さらには“社会との関わり”を意識している点にあると私は考えています。

考えたい“教育”と“社会”の関わり

新指導要領が掲げる、知識・技能の“活用”や“社会との関わり”とは、具体的にどのようなものを指すのでしょうか。
例えば、理科の化学に関する知識は、家庭生活の中で生かすことができます。鉄さびの落とし方、調味料の保管方法、掃除用薬剤の適正な使用などは、化学に関する知識と密接に関わりがあります。また、社会科の知識は、選挙で投票する際の拠り所となります。近現代史を踏まえた日本社会の位置づけを知ったり、民主主義における憲法や三権分立の役割を知ったりすれば、政治に対する見方も変わってくることでしょう。
問題は、こうした知識を習ったはずなのに、使わないまま放置され、日常生活で生かせていない点です。勉強したことの中には、日々の生活で生かせるものもあるのに、ただ知識を叩き込むことに意識が傾き、“活用できるもの”という認識が抜け落ちているのです。
もし、化学変化の公式を日常生活との結び付きの中で学ぶことができたら、その知識は生きた知恵となり、より強固なものとなるでしょう。もし、歴史・公民の知識に対し、模擬選挙・模擬裁判などの体験を通じて“使える”実感が持てれば、「もっと知りたい」という知識欲が芽生えるかもしれません。一部の学校では、すでにそうした視点に立った授業実践が行われていますが、これを全国的なスタンダードにしようというのが、改訂のねらいなのです。
元来、学校は、人が生きていく上で“どうしても必要な”知識や知恵を学ぶために作られたものでした。江戸時代の寺子屋がその典型で、商売等に必要な読み書き・計算などを、より効率的に行うために、町人が知恵を出し合いながら開設していました。
それが、近代化とともに教育が国レベルで体系的に行われるようになった頃から、微妙なズレが生じ始めていきます。そして気が付けば、“活用”という視点が抜け落ちたまま、難解な関数や方程式、化学公式、歴史的事実などを、ひたすら頭に叩き込んでいく教育が行われるようになっていったのです。
もちろん、職業が高度化する現代社会に、寺子屋を復活させるなんて話は暴論です。しかし、教育は“社会との結び付き”の中で考えるべきものであり、その原点とも言える寺子屋の姿は、心のどこかに留めておきたいところです。
かの「ゆとり教育」は、知識偏重型の学校・社会に待ったをかけるものとして導入されたものでした。しかし、「学力低下を招く」として猛烈なバッシングに遭い、改革は中途半端に終わりました。今回改訂は、「ゆとり」という言葉こそ使っていませんが、活用を重視するという方向性自体は、共通しています。その意味では、「衣をまとったゆとり教育」との見方もできるかもしれません。課題は多々ありますが、頓挫することなく、その成果が出ることを祈りたいところです。

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