教職感動エピソード

Vol.1 水が苦手なN君との“秘密特訓”

 

橋本 進(淑徳大学教育学部こども教育学科講師、元埼玉県公立小学校長)

201506P095

イラスト・佐藤百合子

ギラギラとした夏の太陽が照り、学校のプールから子供たちの歓声が聞こえてくる頃、教職生活を送ってきた私に思い出される出来事があります。

「先生ありがとうございました。泳げるようになって中学校に進学できるなんて大感激です。また、…林間学校や修学旅行でクラスの友達と一緒にお風呂に入り、お湯かけや裸の付き合いができるなんて、クラスのみんなに感謝です。みんなありがとう。本当にありがとう。僕は高学年の学校生活を一生忘れることはありません。…」

これはN君の卒業文集の一部です。N君との出会いは、異動した新設校で5年生を担任した30 歳の時に始まります。

学期初めの健康診断の時、保健室で他の男子は下着一枚なのに、N君だけは上下の下着姿でした。幼児期の心臓疾患手術跡を肌色の綿テープで覆っているためです。担任した当初の引き継ぎ用務で、私はその事情を耳にしていたので、そのまま健康診断を終えました。

その後に実施した家庭訪問の折、母親に心臓疾患手術の経過、体育科授業などにおける運動の取り組ませ方などについて尋ねました。すると、母親は複雑そうな表情をして、次のように言いました。

「お陰様で心臓の方は、他のお子さんと同じで大丈夫です。走ることもサッカーなどのボール運動も、普通にやってよいと主治医から許可されております。でも…」

一呼吸置いて、母親はこう語りました。

「実は心臓病のこともあって、あの子を大事にしすぎて、お風呂に入るときも湯船にお湯を半分くらいにしか張ってきませんでした。その影響か顔に水が飛び散るのもダメで、洗髪も頭にドーナツ型のゴムキャップをして洗っております。本当にお恥ずかしいのですが、朝の洗顔も水を絞ったタオルで拭いています。ですから、プールの水泳指導もずっと見学させてきました。」

「えっ!」と驚きの声が出そうになるのを抑えて、しばらくは幼少期のN君の様子について伺っていました。その後、「これから、N君と直接話をさせてください」という私の依頼に、母親は一瞬戸惑ったようでしたが、N君を呼ぶために部屋を出ていきました。

しばらく親子のやりとりが聞こえた後、母親の背後から涙顔をしたN君が現れました。

「先生に胸を見てもらおうね。」

母親の言葉に、N君はTシャツをたくし上げました。そこに現れた手術跡は30 ㎝近くあり、赤くみみず腫れした部分もありましたが、私が想像していたよりはきれいでした。

「小さい頃から大変な病気に打ち勝ってきたね。手術跡のことで苦しい思いをしてきて、これまでプールに入らなかった気持ちも分かるけれど、いつまでもそのままではいかないよね。クラスや学年の友達にはよく話をするし、手術跡に紫外線が当たるのも良くないので、綿テープをしたままで今年はみんなと一緒にプールに入ろうよ。そのための準備として、明日からの放課後、水と格闘だ。」

私は静かな声でそう言い、彼との約束を取り付けました。

翌日の放課後から家庭科室で秘密の特訓が始まりました。家庭科室ならば、コップ、洗面器、タオルなどを持ち込んでも不思議はありません。

コップを使用したうがいから始まり、蛇口を上向きにしたうがいの特訓、顔面に水しぶきを飛ばす特訓、洗面器に張った水を口先でブクブクと泡立てる特訓、蛇口での目洗いの特訓等々、思いつく限りの方法で時には強引に顔に水がかかることに慣れさせていきました。

N君への特別指導については、事前にクラスの子供たちには話してありましたので、家庭科室での状況をよく理解してくれていました。さらに、N君をみんなで応援してくれるように頼んでおきました。
水泳開始日、彼は落ち着かない様子で、緊張のせいか顔色も良くありません。他のクラスの子供たちの視線も気にしていました。日頃は強気な私も、初日から彼をプールに入れるような無理はしませんでした。水量を変えた頭上からのシャワーの通り抜け、腰洗い槽を真水にしての水慣れ、低学年用半水時プールでの水遊び、満水プールでの歩行等々、順序立てた特別メニューの水泳指導を根気よく行いました。

夏休みが始まった頃に行われる「水泳特別教室」にもN君は積極的に参加しました。最初は私にしがみついていたN君も、次第に頭のてっぺんまで水面に潜ることができるようになり、水中で両膝を両腕で抱えるダルマ浮きができたときは大喜びでした。次第に目つきが変わり、蹴伸びから5mほど進めるようになり、6年生になった頃には何と25 mを泳ぎ切ることができるようになったのです。他のクラスの子供たちからも、危惧していたような言動はなく、私の心配は杞憂となりました。

このことをきっかけとして、これまで運動面で消極的だったN君は、6年生の学級対抗サッカー大会の練習にも積極的に参加するなど、他の学習成績も向上してきました。

振り返ると、強気な指導がたまたま成功したように思えますが、そうではありません。N君の頑張りと懸命にN君を支えてきたご家庭の力添えこそが、大きな原動力だったのです。それにも増して、クラスの子供たちや保護者の方々が、彼を温かく見守ってくださったことを嬉しく思います。その熱い思いが、N君の背中を押したのではないかと確信しています。

N君とその級友や保護者との出会いは、私のその後の児童観や教育観の転換に、少なからぬ影響を及ぼしたことは確かな事実です。

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